こんにちは!日野りえ(→プロフィールはこちら)です。
先日「引きこもり主婦シリーズ」を書きました。
毎日昼寝がやめれなくて悩んでいたわたしを救ってくれたのは石井裕之さんとルーシーダットン(タイ式ヨガ)の先生。
この2人のおかげで今、わたしは教員として毎日働くことができていると思っています。
体力がついて昼寝なしで生活できるようになったわたしがその後どうなったのかを書いていきます。
仕事をすることにコンプレックス
大学卒業後、一度も就職していません。
昼寝ざんまいの引きこもり生活をしていた「引きこもり主婦」だったので、自分に自信が全然もてませんでした。
そんなとき、当時小学2年だった息子の学校からお便りが届きました。
「調理実習をするので、お手伝いをしてくれる保護者募集」というもの。
かわいい息子が学校でどんな感じなのか見てみたかったので(暇だし)応募することにしました。
今にして思えば、2年生なので「お芋パーティー」だったかな?とも思うのですが、餃子の皮ピザだったような気もします。
数人の保護者が参加していました。
そこで先生と子どものサポートをしたのですが、意外とスムーズにできたんです。
(もっと自分はダメダメだと思い込んでいた)
これなら働けるかも、と少しの勇気をもらいました。
あのとき、募集してくれた先生方、ありがとうございます。
学校に関わる仕事
そんなときにタイミングよく見つけたのが、学校でのパートタイムの仕事です。
市役所に置いてあったチラシで見つけました。
仕事内容は、「放課後に小学校で子どもたちに宿題を教えてくれる人を募集します。教員免許などはいりません。」
というもの。
その「放課後教室」はその年の9月にスタートした事業でした。
学校なのでその年度で終わります。それも週3で確か午後2時〜午後5時。
つまり週に9時間の仕事。
それもその年度の2月終わり。
だから、もし嫌ですぐにやめたくなっても9月〜2月。
たった週に9時間の仕事なら、自分にもできるだろうと応募することにしました。
どんなに嫌でも2月までならできるだろう、と見積もってのことでした。
市役所での面接〜勘違い
市役所に面接(面接というか面談)に行き、わたしの勘違いに気付きました。
仕事内容についてはわたしの思っていた通りでしたが(放課後の子どもに宿題などを教える)、学校の先生のサポートをする「お手伝い」だと思っていたのです。
実際に聞いてみると、サポートではなく「わたし1人で子どもに教える」ということでした。
勘違いだったのが幸いしました。
最初から「わたし1人で教える」と思っていたら、もしかしたらビビって応募していなかったのかもしれません。
あとは、どこの地域の学校で働けるかなどの確認をして自転車で行ける距離の学校を紹介していただきました。
当時、わたしの子どもたちは小学生だったので子どもの通っている小学校は除外してもらいました。
子どもの通っている小学校ではないけれども、小学校っていうところを保護者という立場ではなく「中から見てみたい」と思ったのも働きたいと思った理由です。
ほんと興味本意でした。
とくに子どもが好きなわけでもなく(自分の子どもは別)、教育に興味もなかったのですから。
小学校での面談
市役所での面談の次は小学校での面談です。
とても緊張したのを覚えています。
校長室に通されたのですが、教頭先生に「肩の力を抜いていきましょう」と言われたのを今でもはっきり覚えています。
それくらいガチガチに見えたのでしょう。
研修のことや学校のことを聞き、その日は帰りました。
仕事がスタートしました!!
外でお金がもらえる仕事というのは学生時代のアルバイト以来です。
まず驚いたのが、職員室の机がわたし用にもらえたことです。
そして教頭先生はじめ他の先生方からも「◯先生」と呼ばれたこと。
当時は教員免許も持っていなかったですし、内心「先生はやめてよ」と思っていました。
仕事内容としては、放課後のその事業に申し込んでくれた子どもに宿題を教えて、宿題が終わればプリントをさせるという仕事でした。
「放課後教室」に来る子は申し込んでくる子なので、全員参加ではありません。
初日には教頭先生がずーっとついてくれていて助かりました。
そのうち1人でやるようになり、仕事内容にも慣れていきました。
子どもがかわいくなってきた!
最初は「2月までだし、嫌になったとしてもそれくらいなら我慢して続けられるだろう」と思って応募した「放課後教室」の仕事。
でもでもうれしい誤算がおきました。
楽しくなってきたのです。
担任の先生にこんなことを報告されたことがあります。
「懇談で◯○ちゃんのお母さんが「放課後教室」でわかりやすく教えてもらってありがとうございます、と言ってましたよ。」と。
その年度の終わり(2月)の最終日には子どもたちが感謝の歌を歌ってくれたり(本当にいい子たちでした)、手紙を書いてくれたりといい思い出が浮かんできます。
あぁ、この仕事を続けられたらどんなにいいだろう、と思っていました。
そしてその「放課後教室」は次年度もやることが決まり、引き続きお願いされたのでした。
放課後教室+支援員の仕事
次年度の5月からはまた同じ学校で「放課後教室」の仕事が始まりました。
そして翌月の6月には学校の子どもたちのお手伝いをする「支援員」をしてもらえませんか?と校長先生からお願いされました。(「放課後教室」の仕事に+して)
その学校の子どもたちに親しみもわいていたので、すぐにやることを決意しました。
後日談
数年前に、当時高校生だった男の子に駅で声をかけられました。
「◯先生、ぼくを覚えていますか?」と。
声をかけられなかったら全然わかりませんでした。
容姿がそれほど変わっていなかったので、「◯◯くんだよね?」と名前を思い出すこともできました。
あの子たちも幸せに過ごしていると思います。